1945(昭和20)
1963(昭和38)

戦後の復興を経て
事業の拡大・多角化へ

焼け残った食堂の片隅を社長室に、復興の陣頭指揮を執る創業者
焼け残った食堂の片隅を社長室に、復興の陣頭指揮を執る創業者
空襲ですべてを失った創業者江崎利一は、従業員に向けて「グリコは破産同様になってしまった。しかし、私は悲観していない。工場も機械も焼けてしまったが、さすがの戦火にも焼けなかった資産がある。それはグリコの名前であり、マークであり、ノレンである」と意気高らかに復興への意気込みを語り、協力を呼びかけました。
空襲で全焼した大阪工場 1945年6月
当社の再建は、バラック工場での乾パンづくりから始まり、終戦から5年後の1950年にはおもちゃ小箱が付いた栄養菓子「グリコ」が、翌年には「ビスコ」が復活しました。その後、統制撤廃を受けて次々と誕生した新興メーカーとの競争を乗り越え、業績は急速に回復していきます。
乾パンの製造 1948年 おもちゃの小箱が復活 1950年 ビスコ再発売時の小型ポスター 1951年
時代は、誰もが食べていくことに必死だった戦後復興期から高度経済成長期へと移行。1950年代半ばから1960年代初めにかけて、テレビや洗濯機などの家電ブームやレジャーブームが到来します。給食の普及や生活の洋風化もあって肉類や乳製品の消費が増える一方、インスタント食品の発売も相次ぎ、食のバリエーションが広がっていきました。
加工食品分野で長く中核商品となったワンタッチカレー 1960年9月 業界に先駆けて牛乳に紙パック テトラ三角容器を採用 1963年5月
当社でも、創業当初から掲げてきた「食品による国民の体位向上」をより幅広く推進するため乳業事業に進出し、1956年9月に佐賀市で誕生したグリコ協同乳業を皮切りに、1962年にかけて全国各地の酪農組合と共同出資で合計6社の新会社を設立。また1956年には、江崎グリコ栄食を設立して食品原料事業も開始しました。
前身となったグリコ東海乳業(岐阜県羽島市) 1955年 江崎グリコ栄食京都工場(京都市) 1958年
菓子では“アーモンドのグリコ”の評価を確立した「アーモンドグリコ」「アーモンドチョコレート」をはじめ、新商品を相次いで投入していきました。
アーモンドグリコ 1955年3月 アーモンドチョコレート 1958年2月
また、暮らしにゆとりが生まれて人々の文化的関心が高まるなか、絵画や切手、コインなどをプレゼントするキャンペーンを展開して好評を得たのもこの時代です。
切手キャンペーンポスター 1957年(左) コインキャンペーン ポスター 1958年(右)
1950年代前半に民間のラジオ放送、テレビ放送が始まると、これまで主力であった新聞広告に加えて、これらの電波媒体を活用した広告をいち早く実施し、コマーシャルソングも導入しました。
テレビCM第1号アーモンドグリコ『紙人形編』 1957年 ドラマ性をもたせたCMグリコガム『終バス編』 1962年
こうして右肩上がりの経済情勢や旺盛な消費動向に乗じて大きく売り上げを伸ばしたものの、1960年代に入ると商品の乱開発、設備投資の増大などで収益性が低下し、当社は重大な経営危機を招くことになります。