1933(昭和8)
1945(昭和20)

第二の栄養菓子ビスコの誕生から
終戦まで

道頓堀川に光を映す初代グリコネオン
道頓堀川に光を映す初代グリコネオン
栄養菓子「グリコ」の成功で業績を急拡大させ、生産体制も充実させた創業者江崎利一は、グリコに続く第二の栄養菓子として、かねてより構想にあった酵母入りクリームサンドビスケット「ビスコ」を商品化しました。開発に当たっては、クリームを加熱せずに生地と密着させて熱に弱い酵母を守るため、牛乳でつくったクリームにヤシ油を添加する従来にない製法を発案し、ネーミングやビスコ坊やのキャラクター作成などにも栄養菓子グリコと同様に創意工夫を発揮しました。
発売当初のビスコ 表面(左)と裏面(右) 1933年 パッケージに描かれたビスコ坊や 1933年 ビスコの裏面に記載された「ビスコの力」
当時の世情を見ると昭和初期の相次ぐ恐慌の影響で不況が続き、社会には不穏な閉塞感が漂い始めていました。当社は厳しい経営環境に苦しみながらも、1寸(3.3cm)角ほどの新聞紙面に、グリコの文字と簡単な文章やイラストを配した豆文広告を掲載し、浅草雷門の横や神戸の新開地、道頓堀など各地にネオン広告を展開。グリコの購入年齢層を引き上げるため、商品のパッケージに入った引換証を集めると枚数に応じて魅力的な賞品がもらえる販促策を考案するなど、新たな施策を打ち出して業績拡大に努めました。
全国紙2紙で掲載を開始した一寸角の豆文広告 1933~1941年 各地で展開されたネオン広告の案内パンフレット 1940年 引換証を貼る台紙。賞品はシャープペンシルにもなる望遠鏡など 1937年ごろ
こうしてグリコの販売数は1940年に戦前の最盛期を迎え、ビスコも順調に売り上げを伸ばしていきます。しかし、すでに戦時体制が強化されてさまざまな統制が広がり、やがて経営にも影響を及ぼす状況に陥りました。
ビスコ蝋付機 1939年ごろ
1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、まずビスコが、続いてグリコが生産中止となり、当社は糖衣菓子や軍用乾パンをつくってしのぎます。しかし戦況は日を追って悪化し、やがて日本各地が空襲を受けるようになりました。
1945年8月の終戦を目前に、当社の大阪工場や東京工場も激しい空襲を受けました。創業から23年、62歳の利一は、奇跡的に焼け残った大阪工場の食堂を除いて国内外すべての資産を失うことになったのです。
戦災で全焼した東京工場 1945年