1919(大正8)
1932(昭和7)

栄養菓子グリコ創製と苦難に満ちた
創業期

創業時の栄養菓子グリコに封入された絵カードや豆玩具
創業時の栄養菓子グリコに封入された絵カードや豆玩具
重化学工業などの近代産業が著しく発展した大正時代から、昭和初期の恐慌の時代へ。世の中が激しく移り変わるなか、当社もまた、創業の高揚感を味わう間もなく厳しい試練と直面することになります。
1919年、創業者江崎利一は故郷の佐賀でぶどう酒販売事業を営みながら、より広く社会に貢献できる事業はないかと考え続けていました。そんなある日、地元を流れる筑後川の支流、早津江川の河原で大釜から吹きこぼれるカキの煮汁を見た利一は、煮汁に含まれるグリコーゲンの活用を思い立ち、子どもたちの健康を願って栄養菓子「グリコ」の創製に着手します。
現在の早津江川
未経験の菓子づくりでしたが、他社との差別化を図る独創的な商品企画を考案し、大阪で創業しました。
グリコーゲンの効力が2ページにわたり記載されている医薬品会社の解説書 1921年当時 発売当時の栄養菓子グリコ 1922年
卸店には“キャラメル”ではなく“栄養菓子グリコ”であることを説いて回りましたが、その発想は受け入れられず、配荷に苦戦を強いられました。そこで、伝統ある三越百貨店という小売店の頂点に商品が並べば、山頂から石を転がすと自然に転げ落ちるように一般の小売店にも広がると考えた利一は、何度も商談を重ね、1922年2月11日、ようやく三越大阪店の店頭に栄養菓子グリコが並ぶ日を迎えます。当社はのちに、この日を「創立記念日」と定めました。
三越大阪店
しかし、売れ行きは芳しくありませんでした。次第に資金が乏しくなっていくなか、前もって打開策を検討していた利一は、現在のクーポン券付きチラシや試食品配布に当たる販促策を実行。さらに味の改良にも取り組み、2年余りで黒字に転じさせました。
割引券付き引札 1931年 試食品という新たな発想で展開された「風味袋」(昭和初期)
そして利一は、販売の増加に乗じて従来の3倍規模の工場に移転し、広告も積極的に展開して全国から寄せられる注文に応えて増産を重ねました。ところが、これが裏目に出ます。注文と実際の需要を見誤って売れ残った商品が卸店から返品されて山積みとなり、たちまち赤字に転落したのです。利一は大量注文に惑わされた判断ミスを生涯の教訓とし、取引先への誠実な対応と「果物キャラメル」などの投入で立て直しを図ります。
従来の約3倍の広さとなる豊崎工場 1925年
その後、発売当初から栄養菓子グリコに込めていた“遊び”の想いを進化させて豆玩具を封入し、菓子とは別の箱に収める「おもちゃ小箱」を発案して導入することで業績は劇的に向上しました。
初めておもちゃ専用小箱と一体化したグリコ(左)、オリジナルのおもちゃ「豆玩具」も登場(右)